自分の立ち位置について

 家へ帰ろうと大学を出たあたりで、百万遍交差点に妙に人が集まっていることに気づく。マイクで拡張された、男性の声が聞こえてくる。どうやら、街頭演説のようだった。衆議院選挙が近いこともあり、その候補や後援団体が演説しに来ること自体は珍しくなかった。

 しかし、あまりに人が多い。普段なら、演説しているのがどの政党の候補かに関係なく、大体の人は素通りする。ここまで人で溢れている百万遍は見たことがなかった。京都市役所前に岸田総理が来るのは知っていたが、もしかしてこっちにも寄ることにしたのだろうか、などと考えながらバス亭に向かおうとしたところ、日の丸の旗をひらひらと振っている人がちらほら目に入った。どうにかその演説者をカメラに収めようと、傘の合間を縫ってスマホを掲げる人もいた。そんな人々を警戒するかのように、いつもなら考えられない数の、京都府警もいた。正直、怖かった。

 流石にここまでの人間を動員することができるのが誰なのか気になった私は、(謎の敗北感を感じながら)声の主を確認することにした。

 そこにいたのは安倍晋三だった。

 

 さて、自分では割と左派なつもりの私だが、安倍を見て何を感じたか。まぁ結論から言えば本人には何の感想もなかった(「敵」だったか「相手」だったかのような言葉が聞こえてきて、相変わらず嫌な話し方をするな…とは思った。)のだが、前述したように、日常と比べてあまりに政治的な空間と化した、いやむしろ、ある種暴力的な空間と化した百万遍に恐怖を覚えた。

 一方で、誰もプラカードは掲げないし、誰もヤジは飛ばさないのだな、と、勝手にがっかりもした。もちろん、自分を棚に上げて。誰かが行動することにのみ期待して、勝手にがっかりしたのである。そんな自分に気づき、また勝手にがっかりした。

 

 ここで真っ先に思い出したのが、吉本隆明であった。彼はいわゆる「戦中派」の知識人で、丸山をはじめとした進歩的知識人や、自分たちに皇国思想を教え込みながら、敗戦後ころっと戦後民主主義を構築していった上の世代に嚙みつきまくっていた。ここで吉本が問題としていたのは、思想と行動が一致していない、自らはその思想に全身全霊をかけることのない者たちだった。結局吉本も、安保闘争の際には自分に「死ぬ覚悟」がなかったことに気づくのだが…。

 

 「思想と行動を一致させる」というのは、なんとも難しいものである。私が社会主義者なのかは定かではないが、少なくとも資本主義、そこから派生して、過剰なブランディング、搾取構造、ネオリベラリズムなどが嫌いで、あるいは人道主義者とまでは言わずとも、優生思想やレイシズム歴史修正主義は批判するべき、もちろん、「愛国者」は嫌いで、転じて国家も嫌いで…といった具合の立場である。

 しかし、勇気がない(そして、結局変に警察に目をつけられたくない)ためデモには行かないし、差別的な発言をした友人を直接咎めることすらも、場を乱すことを恐れてできない。マクドナルドでハンバーガーを買うし、ユニクロで服も買う。毛皮をまとった下品な金持ちに嫌悪感を覚える一方で、革でできた財布を使う。新今宮ワンダーランドには腹が立つが、ユニバーサルスタジオジャパンには行く。で、あれだけ批判していた安倍晋三を目の当たりにしても、人に期待するばかりで、何のアクションもしない、いや、できない。

 

 というか、そもそも別に何かしたいわけでもなかったのかもしれない。「何とか」したいと思っているだけで、肝心の中身、自分の芯の部分には何もないのかもしれない。

 

 私の思想と行動の一致と言えば、オリンピックを一切見ないこと、球場に行って君が代のために起立を促された際、毎回無視していることくらいだろう。なんともしょぼいもんである。

 

 中立(笑)や「無思想」とされる思想を持ち、「政治的」なことは避け、なんとなくメディアが垂れ流す流行に乗り、GAFAが提供してくれる娯楽に興じ、SNSで精いっぱい取り繕った自分の生活を、加えてたまに不満を投稿するくらいの生活がおそらく一番楽で、吉本的な「大衆」も、このような生活をしている人をあるいは内包しているのかもしれない。一生搾取される側ではあるが。

 だからといって、別に資本に搾取されない生活、大量消費をしないで済む生活を提案できるわけでもない。私だって、いくらフェアトレードが理想だとわかってても、TONY'S CHOCOLATEよりもその辺のチョコレートを買ったほうが安いことはわかっているし、新作iPhoneの発表を無邪気に待ち望んでいる方が楽しいことはわかっている。オリンピックやワールドカップに熱狂する方が、そりゃ周りの人々と盛り上がれるかもしれない。

 

 それでも、一度現状に疑問を覚え、社会の何某かに傷つけられ、楽しく生きることができない人がいることを認知してしまうと、もう「無思想」ではいられない。

 

 …もっとも、「無思想」でなくなったところで、解決のために自分でアクションを起こす気力も度胸も知恵も芯もなければ、せめて形だけでもと、SDGsエシカル消費に一役買うための金すらない。

 

 おそらく、私は左翼でも何でもない。ただちょっとだけ周りよりも「社会問題」に敏感なだけの傍観者なのだろう。