M1

面白かったですね、M1!

 

ふとyoutubeで見かけた男性ブランコがめっちゃ面白くて、今日をずっと楽しみにしてました。結果4位でしたけど、売れてほしいですね~

 

ただその

M1終わった後のツイッターがとてもじゃないけど見てられなくて(見なきゃいいんですけど)、自分も愚痴書きたくなってしまいましてね

 

結論から言うとウエストランドのことで、というより「ウエストランドの威を借りて他人の攻撃に走りそうな人」のことなんですけど

 

なんかこの異常なほどの悪意というか憎悪というか、「欧米で『ポリコレ』が強いのはそれだけしないと駄目な社会だから」という俗説の妥当性すら感じたというか

 

別に漫才評がしたいわけではなくて(ってわざわざ防御しないと攻撃されないか怖いなってなるのも異常な状態だけどね?)

 

自分も面白かったですウエストランド。youtuberのくだりなんてよく天心が見てる前でやるよななんて腹抱えて笑ったんです。トレンドに入ってる言葉で言えば「悪口漫才」ですよね、あれは言わないこれは言わない、やれ多様性だコンプライアンスだという現代に悪口漫才が天下とったのはある種の欲望の解放っぽくもあって、そこを(審査員含め)味方につけたのはすごいのひとことですよね~

 

「ウケるってのはつまり共犯ってこと」っていう富澤の言ってることも理解できます、自分も共犯です、が…

 

それでそれ(悪口とかきつい物言いでウケをとるのが)苦手な人、あるいはまさにウエストランドの悪口の対象になってた人を指さし、その人たちの言葉を封殺し、攻撃し、なんかそれはちがくない?って話

 

あえて抽象的に言葉整理すると、すごい悪い形のバックラッシュじゃない?というか

 

ウエストランドの悪口が優勝⇒コンプラ無視が勝った、人を傷つける漫才が勝った⇒それがある種権威づけられる⇒その「権威」に異を唱える人に噛みつく

 

最後のステップいらなすぎない?

 

 

特によくないと感じたのが漫才評してる人をいじったくだり。あそこを引用して、感想呟く人、今回の結果が残念だった人(場合によってはもはや別の漫才師、例えば割と王道ぽい漫才をしていたさや香を応援しててただそれを残念がっているだけの人)に対して、いちいち攻撃的になる人は本当になんなんですかね

 

 

例えばこういう…

 

 

この人へのクソリプの多さやばくないですか。なんでそうなるんですかほんとに。

 

なんで分断しに行くの?

なんでそれまでの権威に狭さを感じていた人たちが、その権威をもって人に嫌なことするの?権威好きなの嫌いなの?

 

ある程度双方向からのバックラッシュが交互に発生して「時代」は進んでいくわけですが、それにしてもこんなに人と人との交流が過去一番多くなっているであろう現代でいきなりこの有様じゃああんまりじゃないですか。

 

腹のうちを隠す隠さないっていうのはお笑い以前の話だと思いませんか。そもそも隠せって風潮になってきたのも、今のこの状況が何より原因を明らかにしてると思いませんか。

 

思えば「うっせぇわ」くらいからふんわりあった気もするんですよね、予兆みたいなもの

 

社会的に強くはない人たちの、文句を言えない人たちの爆発しかけの感情とか

 

それを委託できる、「俺たちの気持ちがわかってくれる影響力のある人物その他」への期待とか自己投影とか

 

そういう人たちが解放されるときって、その自己投影の対象が権威づけられたときな気がするんです。だから別にその人たちは本当は解放されてないし、仮にそれで何かスッキリしたとしても矛先を向けるべきものを間違えすぎてる気がするんです。争っても悲しいだけな気がするんです。人攻撃して本当のガチのマジで心の底からなんの後ろめたさもなくそれはそれはさっぱりすっきりするんですか?

 

ウエストランドが優勝したから今だからこそ言いたい

 

人に優しくしません?

 

優しくするまでいかなくても、どこかで踏ん切りつけてわきまえません?

 

 

 

 

…被害妄想かもしれませんが、この文章も読む人によっては「お気持ち表明」として封殺されるんですかね

 

 

 

 

しょーもな

その涙は何だ?

 私の研究生活の原点は『はだしのゲン』である。

 

 小学4年生の頃、ひょんなことから『はだしのゲン』に出会った私は、2つの衝撃を覚えた。1つ目の衝撃は、今まで全く目にすることのなかった(というか、目にしなければ到底ゼロベースでは想像もできなかった)グロテスクな、凄惨な画によるもの。2つ目の衝撃は、『はだしのゲン』はフィクションではない、ということだった。「こんなひどいことが、本当にあったなんて信じられない」という思いでいっぱいだった。

 

 その後、夢中になって太平洋戦争のことを調べた。図書館へ行き、資料を集め、読み、整理し、それを共有することを覚えたのはここだっただろう。学校の図書室でも原爆関連の本を読み漁った。英語は敵性言語だと喚き親に心配されたり、軍艦や戦闘機に興味を持ったり、平和学習の際の周りとの温度差に少しずつ疑問を覚え始めたり、米国視点での原爆解釈に文化の違いを覚えたり…と本当はもっとすったもんだあるわけだが、とにかく私の研究人生はここに始まったわけである。

 

 しかし、私は今も太平洋戦争や原爆について研究しているわけではない。もちろん人よりは興味があるのだろうが、これを専門にはできないのである。

 

 というのも、私はこの手の話になると——小学生のときの衝撃がどう関係しているのかについては不明であるが—―どうも感情が入りすぎてしまう。ひどいときには、人前であろうと涙を流してしまう。『はだしのゲン』をはじめとして、戦争を語るアニメ、ドラマ、映画、ドキュメンタリー、文学、写真、手紙…一体どれほど泣いただろうか。決して泣きたいときに手っ取り早くこれらを「泣けるもの」として消費していたわけではないことを強く強調しておきたいが、とにかく、悲しいのか悔しいのか、それとも怒りから来るのか、やりきれなくなり、泣いてしまうである。昨年も、(小学生のとき以来に)原爆資料館を訪れたが、そこでもやはり、戦争の、原爆の惨状を物語る展示物を前に涙を流さずにはいられなかった。

 

 持論だが、肩入れしすぎる、感情が入りすぎるものは、研究対象にしないほうがいいと私は考えている。理由はただ、フラットな目でそれを見ることが難しいということにある。…戦争をフラットに見るとはどういうことか?そもそも、研究対象とは感情が入るものではないのか?というご指摘もあるかもしれない。しかし、とにかく当の私自身が拒んでいる以上、無理なものは無理なのである。もちろん私の研究テーマは「私には関係ない」という意識、そういった「当事者性」の欠如についての疑問が根底にあるため、これからも頭の中に太平洋戦争と原爆は居続けるだろう。

 

 わからないのは、私は何故泣いているのかということである。いや、上記のように、おそらくは悲しく、悔しく、腹が立ち、やりきれず泣いているのだろう。しかし私は、その涙を流している目と同じ目で、怪獣ゴジラがその「核」の力でもって都市を蹂躙する様を、『トップガン』のマーヴェリック大佐が敵戦闘機を撃墜するのを見て、興奮している。私は、特攻隊が念頭にあるようにしか見えない、美辞麗句が甚だしい犠牲の描写を――私が一番苦手な、あまりに奇麗すぎる先の戦争の捉え方である――無邪気に楽しむ人びとが心底嫌いでありながらも、自分もまたこれを消費し、そのときはまた涙する。

 

 では私の涙は何だ。その都合のいい涙は、一体何なのだ。

人との関わり方について

1

今このご時世に、他人の考えや行動をどうにか変えさせようと、改めさせようと邁進する人は少ないだろう。

 

たとえ何か気に入らないことを言われても、多少目にあまるような行動をされても、「そういう人」なんだと割り切り、突き放し、あるいはそれ以外の面でその人を受け入れる。

 

これをどう説明すべきだろうか。ポストモダン化の余波の一つだと考えることもできるし、インターネット(とりわけ、SNS?)が普及したことによるものかもしれない。興味深いテーマではあるが、私がこの記事で問題にしたいのはここではない。「他人を「そういう人」と割り切る行為」そのものについて、である。

 

2

別にそのやり方を非難したいわけではない。他人はあくまで「他人」なのだから、割り切り、というかはある種の諦めは必要になる。「まぁそういうもんだよな、他人だもんな」と。

 

ただ疑問を呈したいのは、この「そういう人」という「割り切り」はむしろ、「割り切り」の行為者の首を絞めてはいないかということである。

 

当然のことながら、何かしらの言動に対して「そういう人」というラベリングを行うのは、私やこれを読んでいるあなただけではない。私たちが「そういう人」と割り切ったつもりでいる人々もまた、私たちに何かしらのラベルを付与しているのである。

 

言ってしまえば、いつでも割り切られる側にまわる可能性がある、ということ。

 

私はよく、友人、先輩、さらには自分が師事する先生にすらも、「人に気を使いすぎ」「人のことを気にしすぎ」と言われる。それは褒めている文脈のときもあれば、何故そんな生き辛い道を選んでいるのかという疑問として投げかけられることもある。

 

先に結論を言ってしまえば、私は「そういう人」という「割り切り」を頻繁に行う。ただ同時に、自分が割り切られる側であることを強く意識しているため、他人が自分をどう思っているのかについて注意を払うことをやめられないのだ。

 

3

私は物事の好き嫌いがかなりはっきりしている。そのため、他人の言動1つ1つに対しての「割り切り」や「そういう人」とラベリングを行う機会が日常の中に多数ある。それに応じて個々人との付き合い方を常に変えているし、また、付き合えないと判断した場合の縁切りも相当に早い。だから、友人が少ない。

 

まぁ、広義の「友人」であれば、別に少なくはない。つまりある程度の「割り切り」は行った上で、「一緒に旅行に行くのは憚られるが趣味は一緒」だとか「考え方にも行動にも賛同できないが、話していて楽しい」という距離感の人は何人もいる。全幅の信頼を寄せる存在の不在、友人というよりむしろ「親友」がいないと言った方が適切か。

 

ハナからそうというわけでもまた、ない。自分でも言うのもおかしな話だが、割と人懐っこい私は、人と仲良くなるのは早い。しかし決まって、それ以上は進まない。全幅の信頼を寄せてしまった後に自分が「そういう人」と諦められることが怖いからである。

 

4

この性分は非常に厄介である。どれだけ仲の良い人と話しても、家に帰れば必ずと言っていいほど脳内で反省会が開かれる。何か気に触るようなことを言わなかっただろうか、していなかっただろうか、と。もちろんこの間にも、自分側からの「割り切り」は同時並行で行なっている。全く嫌な奴である。

 

衝突を恐れるため相手の嫌な点を見つけては勝手にそれを「割り切り」、「そういう人」だからと理由をつけることで目的に応じた付き合い方に留める。一方では自分が割り切られる可能性を常に意識しているため、他人が気になって仕方ない。気が置けない存在など、いるはずもない。

 

大抵の人間関係は意外とこれでのらりくらりやれるもんである。これは23年生きてきてそれなりにはわかったことだ。しかし、恋人、あるいは生涯のパートナーの場合はこうもいかない。こちらは、100%とまでは行かずとも、「割り切り」を行わなければならない要素が極限まで少なく、かつ自分を「そういう人」と諦めることなく改善すべき点を話してくれる存在でなくてはならない。いや「なくてはならない」ことはないのだが、そうでもなければ私は何十年も一緒にはいられない。

 

5

冒頭でポストモダンがどうとかいう話をした。しかしよく考えてみれば、人間関係についての葛藤を解消するような作品は本当に無数に存在する。それはアニメだったり漫画だったり映画だったり、古くは文学だったりするわけだが、これらはいつの時代も、現実の人間関係についての問題を象徴的に解決してくれているのだろう。私が以前書評の筆をとらせていただいた本の言葉を引用するなら、「儀礼的役割」を果たしてくれているのである。殴り合いの喧嘩をしたり、酒を交わしながら深く議論しあったり、一方のピンチをもう一方が助けたりして、作品内の人間関係の葛藤は解消される。なんとも理想的なイメージである。

 

セルフ擁護をすれば、現代に向かうにつれ、その葛藤を解消せずに済むケースが増えたこともまた事実だろう。実際私は、生き辛いながらも心を病んだりはしていないのだから。

 

しかし、恋人については本当にどうにもならない。こればっかりは妥協できない。いやはや、難しいもんである。

自分の立ち位置について

 家へ帰ろうと大学を出たあたりで、百万遍交差点に妙に人が集まっていることに気づく。マイクで拡張された、男性の声が聞こえてくる。どうやら、街頭演説のようだった。衆議院選挙が近いこともあり、その候補や後援団体が演説しに来ること自体は珍しくなかった。

 しかし、あまりに人が多い。普段なら、演説しているのがどの政党の候補かに関係なく、大体の人は素通りする。ここまで人で溢れている百万遍は見たことがなかった。京都市役所前に岸田総理が来るのは知っていたが、もしかしてこっちにも寄ることにしたのだろうか、などと考えながらバス亭に向かおうとしたところ、日の丸の旗をひらひらと振っている人がちらほら目に入った。どうにかその演説者をカメラに収めようと、傘の合間を縫ってスマホを掲げる人もいた。そんな人々を警戒するかのように、いつもなら考えられない数の、京都府警もいた。正直、怖かった。

 流石にここまでの人間を動員することができるのが誰なのか気になった私は、(謎の敗北感を感じながら)声の主を確認することにした。

 そこにいたのは安倍晋三だった。

 

 さて、自分では割と左派なつもりの私だが、安倍を見て何を感じたか。まぁ結論から言えば本人には何の感想もなかった(「敵」だったか「相手」だったかのような言葉が聞こえてきて、相変わらず嫌な話し方をするな…とは思った。)のだが、前述したように、日常と比べてあまりに政治的な空間と化した、いやむしろ、ある種暴力的な空間と化した百万遍に恐怖を覚えた。

 一方で、誰もプラカードは掲げないし、誰もヤジは飛ばさないのだな、と、勝手にがっかりもした。もちろん、自分を棚に上げて。誰かが行動することにのみ期待して、勝手にがっかりしたのである。そんな自分に気づき、また勝手にがっかりした。

 

 ここで真っ先に思い出したのが、吉本隆明であった。彼はいわゆる「戦中派」の知識人で、丸山をはじめとした進歩的知識人や、自分たちに皇国思想を教え込みながら、敗戦後ころっと戦後民主主義を構築していった上の世代に嚙みつきまくっていた。ここで吉本が問題としていたのは、思想と行動が一致していない、自らはその思想に全身全霊をかけることのない者たちだった。結局吉本も、安保闘争の際には自分に「死ぬ覚悟」がなかったことに気づくのだが…。

 

 「思想と行動を一致させる」というのは、なんとも難しいものである。私が社会主義者なのかは定かではないが、少なくとも資本主義、そこから派生して、過剰なブランディング、搾取構造、ネオリベラリズムなどが嫌いで、あるいは人道主義者とまでは言わずとも、優生思想やレイシズム歴史修正主義は批判するべき、もちろん、「愛国者」は嫌いで、転じて国家も嫌いで…といった具合の立場である。

 しかし、勇気がない(そして、結局変に警察に目をつけられたくない)ためデモには行かないし、差別的な発言をした友人を直接咎めることすらも、場を乱すことを恐れてできない。マクドナルドでハンバーガーを買うし、ユニクロで服も買う。毛皮をまとった下品な金持ちに嫌悪感を覚える一方で、革でできた財布を使う。新今宮ワンダーランドには腹が立つが、ユニバーサルスタジオジャパンには行く。で、あれだけ批判していた安倍晋三を目の当たりにしても、人に期待するばかりで、何のアクションもしない、いや、できない。

 

 というか、そもそも別に何かしたいわけでもなかったのかもしれない。「何とか」したいと思っているだけで、肝心の中身、自分の芯の部分には何もないのかもしれない。

 

 私の思想と行動の一致と言えば、オリンピックを一切見ないこと、球場に行って君が代のために起立を促された際、毎回無視していることくらいだろう。なんともしょぼいもんである。

 

 中立(笑)や「無思想」とされる思想を持ち、「政治的」なことは避け、なんとなくメディアが垂れ流す流行に乗り、GAFAが提供してくれる娯楽に興じ、SNSで精いっぱい取り繕った自分の生活を、加えてたまに不満を投稿するくらいの生活がおそらく一番楽で、吉本的な「大衆」も、このような生活をしている人をあるいは内包しているのかもしれない。一生搾取される側ではあるが。

 だからといって、別に資本に搾取されない生活、大量消費をしないで済む生活を提案できるわけでもない。私だって、いくらフェアトレードが理想だとわかってても、TONY'S CHOCOLATEよりもその辺のチョコレートを買ったほうが安いことはわかっているし、新作iPhoneの発表を無邪気に待ち望んでいる方が楽しいことはわかっている。オリンピックやワールドカップに熱狂する方が、そりゃ周りの人々と盛り上がれるかもしれない。

 

 それでも、一度現状に疑問を覚え、社会の何某かに傷つけられ、楽しく生きることができない人がいることを認知してしまうと、もう「無思想」ではいられない。

 

 …もっとも、「無思想」でなくなったところで、解決のために自分でアクションを起こす気力も度胸も知恵も芯もなければ、せめて形だけでもと、SDGsエシカル消費に一役買うための金すらない。

 

 おそらく、私は左翼でも何でもない。ただちょっとだけ周りよりも「社会問題」に敏感なだけの傍観者なのだろう。

スクリーンから離れて生活することの難しさ

 就活のこと、研究のこと、単位のこと、場合によっては必要となるかもしれないSPIやTOEICのこと…考えなければならないことがあまりに多い。特に、今まで自分が散々忌避してきた「ガクチカ」や「自己PR」なるものに、ついに向き合う時が来たのかと思うと、気分は憂鬱になってゆくばかりである。最近、眠りが非常に浅く、いやな夢ばかり見てしまうのも恐らくは無関係ではないのだろう。なんとも生きづらいものである。

 

 しかも、自分が主催する読書会や、3社ものインターンシップのエントリーの締め切りが迫った一昨日に発熱し、寝込んでしまっていた。幸い世間を騒がせている例の新型ウイルスとは関係なかったそうだが、時期を考えればむしろ、関係があった方が嬉しかったとすら思ってしまう。

 

 他の人がどうなのかはいまいちわからないが、私の場合、体調が悪いときにPCやスマホの画面を眺めるのは非常にきついものがある。いつも以上に鮮烈な光を放っているように感じ、何より頭が痛くなってしまう。

 

 それでもメールは届くし電話は鳴る。企業は締め切りまでにエントリーするよう急かしてくるし、zoomでの面談の予定も入る。研究会や読書会についても、SlackやLINEが通知を送り続けてくる。そもそもがオンライン受講であるため、授業を当たり前の感覚で休むこともままならない(いや、休めばいいのだが)。

 

 冒頭で述べた通り、今私の頭を悩ませているのはもっぱら「就活」と「研究」である。悲しきかな、この二択の場合、どちらにもPCはついてまわり続ける。労働、特にホワイトカラーのデスクワークの場合、何を1日に8時間も作業する必要があるのかわからないが、とにかくPCに向かい続けなければならない。

 

 研究も、デスクワークには違いない。研究室ではオフィスよろしく、各々が声も出さずにPCに向かっている。日本最大の某国立国会図書館でも、お望みの資料はデジタルの画面上に表示される。現地にいるのにも関わらず、である。

 

 あるとき私は、せめて「書く」という作業をPCから離反させることはできないものかと、これまた皮肉なことにPCで調べた。なるほどword以外のアプリを提示してくれはするものの、「書く」という作業をPC抜きで語るサイトは全くと言っていいほど見られなかった。もちろん私もタイプライターや原稿用紙を使いたいわけではないのだが、過去への憧憬を抜きにしても、PCの代替手段は何もないのだなと実感せざるを得なかった。

 

 カル・ニューポートが提唱する「デジタル・ミニマリズム」という考え方がある。この概念を論じ細かな実践方法まで紹介している彼の著書『デジタル・ミニマリスト』(早川書房、2021年)は非常に魅力的なものだが、ここで紹介されているのはSNSのような、使用方法によってはむしろQOLを著しく低下させてしまうツールからの脱却の実践方法である。便利であるものを本当に必要なときにのみ上手く利用することで、仕事を含めたほかの物事に集中できる環境を作ることが、本書の提唱する「デジタル・ミニマリズム」であり、ここで問題とされている主な対象はスマホである。つまり、根本からスクリーンから離れることを勧めているわけではない。

 

 かく言う私も、ニューポートがそう言っているように、インターネットの全ての機能を排除することはかえって実生活に支障をきたしてしまうことは頭ではわかっている。もちろんわかっているのだが…。

 

 寝込み続けていたここ数日を振り返って、睡眠以外に私が集中できたことと言えばやはり読書であった(無論紙媒体である)。活字に没頭し、「今は休むべきときなのだから」と、特にスマホには関心を向けないようにしていた。目もそこまで疲れないし、広告や通知の雑音もなく、私を想像の世界へ連れて行ってくれた(お察しの通り、読んでいたのは研究書ではなく小説である)。

 

 しかし、極力無視しようと心で思っていても、スマホやPCは私を呼び続けてくるのである。しかも友人からの連絡がほとんどだった以前とは違って、私のレスポンスが本当に必要なものばかりであるため、風邪とはいえ無視の限界がある。本当に、1秒たりともあの忌々しいスクリーンを視界に入れたくない体調なのに。

 

 母は、デジタル化が進んだ世の中を「便利にはなったと思う」と評しながらも、「でもその分、ズル休みというか、サボることが難しくなったから、今の人は可哀想」と続けたことがあった。その意味でも、デジタル化がもたらしたのは「人とのつながり」以上に「スクリーンへの縛り付け」と言ったほうが的確であるすらと思う。

 

 私の最大の夢は、(あまりに一方的な、勝手なイメージであると怒られてしまうかもしれないが)例えばどこか南国の島で、PCやスマホを捨てて生活することである。私への便りは当然、紙媒体。既読のつくつかないや、特に何ら意味のないSNSのチェックに勤しまなくていい生活。晩年のゴーギャンがそうしたように、どうにかそんな生活ができないか、夢を見続ける毎日である。