人との関わり方について

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今このご時世に、他人の考えや行動をどうにか変えさせようと、改めさせようと邁進する人は少ないだろう。

 

たとえ何か気に入らないことを言われても、多少目にあまるような行動をされても、「そういう人」なんだと割り切り、突き放し、あるいはそれ以外の面でその人を受け入れる。

 

これをどう説明すべきだろうか。ポストモダン化の余波の一つだと考えることもできるし、インターネット(とりわけ、SNS?)が普及したことによるものかもしれない。興味深いテーマではあるが、私がこの記事で問題にしたいのはここではない。「他人を「そういう人」と割り切る行為」そのものについて、である。

 

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別にそのやり方を非難したいわけではない。他人はあくまで「他人」なのだから、割り切り、というかはある種の諦めは必要になる。「まぁそういうもんだよな、他人だもんな」と。

 

ただ疑問を呈したいのは、この「そういう人」という「割り切り」はむしろ、「割り切り」の行為者の首を絞めてはいないかということである。

 

当然のことながら、何かしらの言動に対して「そういう人」というラベリングを行うのは、私やこれを読んでいるあなただけではない。私たちが「そういう人」と割り切ったつもりでいる人々もまた、私たちに何かしらのラベルを付与しているのである。

 

言ってしまえば、いつでも割り切られる側にまわる可能性がある、ということ。

 

私はよく、友人、先輩、さらには自分が師事する先生にすらも、「人に気を使いすぎ」「人のことを気にしすぎ」と言われる。それは褒めている文脈のときもあれば、何故そんな生き辛い道を選んでいるのかという疑問として投げかけられることもある。

 

先に結論を言ってしまえば、私は「そういう人」という「割り切り」を頻繁に行う。ただ同時に、自分が割り切られる側であることを強く意識しているため、他人が自分をどう思っているのかについて注意を払うことをやめられないのだ。

 

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私は物事の好き嫌いがかなりはっきりしている。そのため、他人の言動1つ1つに対しての「割り切り」や「そういう人」とラベリングを行う機会が日常の中に多数ある。それに応じて個々人との付き合い方を常に変えているし、また、付き合えないと判断した場合の縁切りも相当に早い。だから、友人が少ない。

 

まぁ、広義の「友人」であれば、別に少なくはない。つまりある程度の「割り切り」は行った上で、「一緒に旅行に行くのは憚られるが趣味は一緒」だとか「考え方にも行動にも賛同できないが、話していて楽しい」という距離感の人は何人もいる。全幅の信頼を寄せる存在の不在、友人というよりむしろ「親友」がいないと言った方が適切か。

 

ハナからそうというわけでもまた、ない。自分でも言うのもおかしな話だが、割と人懐っこい私は、人と仲良くなるのは早い。しかし決まって、それ以上は進まない。全幅の信頼を寄せてしまった後に自分が「そういう人」と諦められることが怖いからである。

 

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この性分は非常に厄介である。どれだけ仲の良い人と話しても、家に帰れば必ずと言っていいほど脳内で反省会が開かれる。何か気に触るようなことを言わなかっただろうか、していなかっただろうか、と。もちろんこの間にも、自分側からの「割り切り」は同時並行で行なっている。全く嫌な奴である。

 

衝突を恐れるため相手の嫌な点を見つけては勝手にそれを「割り切り」、「そういう人」だからと理由をつけることで目的に応じた付き合い方に留める。一方では自分が割り切られる可能性を常に意識しているため、他人が気になって仕方ない。気が置けない存在など、いるはずもない。

 

大抵の人間関係は意外とこれでのらりくらりやれるもんである。これは23年生きてきてそれなりにはわかったことだ。しかし、恋人、あるいは生涯のパートナーの場合はこうもいかない。こちらは、100%とまでは行かずとも、「割り切り」を行わなければならない要素が極限まで少なく、かつ自分を「そういう人」と諦めることなく改善すべき点を話してくれる存在でなくてはならない。いや「なくてはならない」ことはないのだが、そうでもなければ私は何十年も一緒にはいられない。

 

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冒頭でポストモダンがどうとかいう話をした。しかしよく考えてみれば、人間関係についての葛藤を解消するような作品は本当に無数に存在する。それはアニメだったり漫画だったり映画だったり、古くは文学だったりするわけだが、これらはいつの時代も、現実の人間関係についての問題を象徴的に解決してくれているのだろう。私が以前書評の筆をとらせていただいた本の言葉を引用するなら、「儀礼的役割」を果たしてくれているのである。殴り合いの喧嘩をしたり、酒を交わしながら深く議論しあったり、一方のピンチをもう一方が助けたりして、作品内の人間関係の葛藤は解消される。なんとも理想的なイメージである。

 

セルフ擁護をすれば、現代に向かうにつれ、その葛藤を解消せずに済むケースが増えたこともまた事実だろう。実際私は、生き辛いながらも心を病んだりはしていないのだから。

 

しかし、恋人については本当にどうにもならない。こればっかりは妥協できない。いやはや、難しいもんである。