その涙は何だ?

 私の研究生活の原点は『はだしのゲン』である。

 

 小学4年生の頃、ひょんなことから『はだしのゲン』に出会った私は、2つの衝撃を覚えた。1つ目の衝撃は、今まで全く目にすることのなかった(というか、目にしなければ到底ゼロベースでは想像もできなかった)グロテスクな、凄惨な画によるもの。2つ目の衝撃は、『はだしのゲン』はフィクションではない、ということだった。「こんなひどいことが、本当にあったなんて信じられない」という思いでいっぱいだった。

 

 その後、夢中になって太平洋戦争のことを調べた。図書館へ行き、資料を集め、読み、整理し、それを共有することを覚えたのはここだっただろう。学校の図書室でも原爆関連の本を読み漁った。英語は敵性言語だと喚き親に心配されたり、軍艦や戦闘機に興味を持ったり、平和学習の際の周りとの温度差に少しずつ疑問を覚え始めたり、米国視点での原爆解釈に文化の違いを覚えたり…と本当はもっとすったもんだあるわけだが、とにかく私の研究人生はここに始まったわけである。

 

 しかし、私は今も太平洋戦争や原爆について研究しているわけではない。もちろん人よりは興味があるのだろうが、これを専門にはできないのである。

 

 というのも、私はこの手の話になると——小学生のときの衝撃がどう関係しているのかについては不明であるが—―どうも感情が入りすぎてしまう。ひどいときには、人前であろうと涙を流してしまう。『はだしのゲン』をはじめとして、戦争を語るアニメ、ドラマ、映画、ドキュメンタリー、文学、写真、手紙…一体どれほど泣いただろうか。決して泣きたいときに手っ取り早くこれらを「泣けるもの」として消費していたわけではないことを強く強調しておきたいが、とにかく、悲しいのか悔しいのか、それとも怒りから来るのか、やりきれなくなり、泣いてしまうである。昨年も、(小学生のとき以来に)原爆資料館を訪れたが、そこでもやはり、戦争の、原爆の惨状を物語る展示物を前に涙を流さずにはいられなかった。

 

 持論だが、肩入れしすぎる、感情が入りすぎるものは、研究対象にしないほうがいいと私は考えている。理由はただ、フラットな目でそれを見ることが難しいということにある。…戦争をフラットに見るとはどういうことか?そもそも、研究対象とは感情が入るものではないのか?というご指摘もあるかもしれない。しかし、とにかく当の私自身が拒んでいる以上、無理なものは無理なのである。もちろん私の研究テーマは「私には関係ない」という意識、そういった「当事者性」の欠如についての疑問が根底にあるため、これからも頭の中に太平洋戦争と原爆は居続けるだろう。

 

 わからないのは、私は何故泣いているのかということである。いや、上記のように、おそらくは悲しく、悔しく、腹が立ち、やりきれず泣いているのだろう。しかし私は、その涙を流している目と同じ目で、怪獣ゴジラがその「核」の力でもって都市を蹂躙する様を、『トップガン』のマーヴェリック大佐が敵戦闘機を撃墜するのを見て、興奮している。私は、特攻隊が念頭にあるようにしか見えない、美辞麗句が甚だしい犠牲の描写を――私が一番苦手な、あまりに奇麗すぎる先の戦争の捉え方である――無邪気に楽しむ人びとが心底嫌いでありながらも、自分もまたこれを消費し、そのときはまた涙する。

 

 では私の涙は何だ。その都合のいい涙は、一体何なのだ。