スクリーンから離れて生活することの難しさ

 就活のこと、研究のこと、単位のこと、場合によっては必要となるかもしれないSPIやTOEICのこと…考えなければならないことがあまりに多い。特に、今まで自分が散々忌避してきた「ガクチカ」や「自己PR」なるものに、ついに向き合う時が来たのかと思うと、気分は憂鬱になってゆくばかりである。最近、眠りが非常に浅く、いやな夢ばかり見てしまうのも恐らくは無関係ではないのだろう。なんとも生きづらいものである。

 

 しかも、自分が主催する読書会や、3社ものインターンシップのエントリーの締め切りが迫った一昨日に発熱し、寝込んでしまっていた。幸い世間を騒がせている例の新型ウイルスとは関係なかったそうだが、時期を考えればむしろ、関係があった方が嬉しかったとすら思ってしまう。

 

 他の人がどうなのかはいまいちわからないが、私の場合、体調が悪いときにPCやスマホの画面を眺めるのは非常にきついものがある。いつも以上に鮮烈な光を放っているように感じ、何より頭が痛くなってしまう。

 

 それでもメールは届くし電話は鳴る。企業は締め切りまでにエントリーするよう急かしてくるし、zoomでの面談の予定も入る。研究会や読書会についても、SlackやLINEが通知を送り続けてくる。そもそもがオンライン受講であるため、授業を当たり前の感覚で休むこともままならない(いや、休めばいいのだが)。

 

 冒頭で述べた通り、今私の頭を悩ませているのはもっぱら「就活」と「研究」である。悲しきかな、この二択の場合、どちらにもPCはついてまわり続ける。労働、特にホワイトカラーのデスクワークの場合、何を1日に8時間も作業する必要があるのかわからないが、とにかくPCに向かい続けなければならない。

 

 研究も、デスクワークには違いない。研究室ではオフィスよろしく、各々が声も出さずにPCに向かっている。日本最大の某国立国会図書館でも、お望みの資料はデジタルの画面上に表示される。現地にいるのにも関わらず、である。

 

 あるとき私は、せめて「書く」という作業をPCから離反させることはできないものかと、これまた皮肉なことにPCで調べた。なるほどword以外のアプリを提示してくれはするものの、「書く」という作業をPC抜きで語るサイトは全くと言っていいほど見られなかった。もちろん私もタイプライターや原稿用紙を使いたいわけではないのだが、過去への憧憬を抜きにしても、PCの代替手段は何もないのだなと実感せざるを得なかった。

 

 カル・ニューポートが提唱する「デジタル・ミニマリズム」という考え方がある。この概念を論じ細かな実践方法まで紹介している彼の著書『デジタル・ミニマリスト』(早川書房、2021年)は非常に魅力的なものだが、ここで紹介されているのはSNSのような、使用方法によってはむしろQOLを著しく低下させてしまうツールからの脱却の実践方法である。便利であるものを本当に必要なときにのみ上手く利用することで、仕事を含めたほかの物事に集中できる環境を作ることが、本書の提唱する「デジタル・ミニマリズム」であり、ここで問題とされている主な対象はスマホである。つまり、根本からスクリーンから離れることを勧めているわけではない。

 

 かく言う私も、ニューポートがそう言っているように、インターネットの全ての機能を排除することはかえって実生活に支障をきたしてしまうことは頭ではわかっている。もちろんわかっているのだが…。

 

 寝込み続けていたここ数日を振り返って、睡眠以外に私が集中できたことと言えばやはり読書であった(無論紙媒体である)。活字に没頭し、「今は休むべきときなのだから」と、特にスマホには関心を向けないようにしていた。目もそこまで疲れないし、広告や通知の雑音もなく、私を想像の世界へ連れて行ってくれた(お察しの通り、読んでいたのは研究書ではなく小説である)。

 

 しかし、極力無視しようと心で思っていても、スマホやPCは私を呼び続けてくるのである。しかも友人からの連絡がほとんどだった以前とは違って、私のレスポンスが本当に必要なものばかりであるため、風邪とはいえ無視の限界がある。本当に、1秒たりともあの忌々しいスクリーンを視界に入れたくない体調なのに。

 

 母は、デジタル化が進んだ世の中を「便利にはなったと思う」と評しながらも、「でもその分、ズル休みというか、サボることが難しくなったから、今の人は可哀想」と続けたことがあった。その意味でも、デジタル化がもたらしたのは「人とのつながり」以上に「スクリーンへの縛り付け」と言ったほうが的確であるすらと思う。

 

 私の最大の夢は、(あまりに一方的な、勝手なイメージであると怒られてしまうかもしれないが)例えばどこか南国の島で、PCやスマホを捨てて生活することである。私への便りは当然、紙媒体。既読のつくつかないや、特に何ら意味のないSNSのチェックに勤しまなくていい生活。晩年のゴーギャンがそうしたように、どうにかそんな生活ができないか、夢を見続ける毎日である。